桜の花の浮かぶ水槽で
鯖も泳いでます
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絶対幸福論 6
「うー! 犯人は魔女、ベアトリーチェなの!」
真里亞が、唐突に金切り声をあげる。疲労からか掌で目元を覆うように俯いていた楼座が、慌てて彼女を窘める。
少しだけ雰囲気が――善きにつけ悪しきにつけ――変わって、朱志香は不謹慎にも感謝を覚えた。
「ママ、なんで信じないの? ベアトリーチェがやったんだよ? なんで止めるの?」
「黙りなさい真里亞。ママ達は真面目な話をしているの。魔女ごっこならあとで付き合ってあげるから、黙りなさい」
周囲の注目は、魔女犯人説を唱える幼い少女とその母へと向く。異端者への視線は冷たい。
真里亞の方もいかに9歳とて――9歳ならば十分に、絵羽の推理の前提が『人間』であることは解るのだろう。真里亞にとって魔女はアリバイなど超越する存在なのだ。
(もういっそ、全て魔女の仕業で良いよ)
思考の奥が真っ黒になって、ぐらぐらと揺れる。
朱志香は自分の頭の回転が速いなどとは思っていなかったし、実際絵羽に提示されたままの主観的真実の上で、必死に抜け道を探していた。
そんな追い付くのもままならない自分では、嘉哉の無実は証明出来ない。そう、自分には何も出来ない。
そして、無実が証明出来なければ捜索はされない――駄目じゃないか、このままでは嘉哉が危険にさらされたまま! ……或いは、既に――朱志香はソファから腰をあげようとする。
だが、支柱にした腕を絵羽に掴まれてしまう。
獰猛でしなやかな野獣のように、不気味に瞠かれた片目。もう片方がぐにゃりと歪みながら吊り上がり、どちらも自分を捉えている。
『逃がすものか! 人殺しの※※!』
そんな声が光速で脳みそを巡回して、思わず情けない声を出してたじろく。
「くすくす。ベアトリーチェねぇ、そうかもねぇ? 良かったじゃない朱志香ちゃぁん。容疑者が増えたわよぅ。……だからとっとと喋ってくれないかしらぁ、嘉音と別れたのが本当は何時だったか」
「だ、だから、私が食堂に向かう直前だっていってるだろ!?」
「それなら嘉音は自分から失踪した。それで終わりねぇ! それとも魔女かしらぁ、だとしたら目的は何なのかしらねぇ? ほらほらぁ、どう思うのぉ!?」
「知らない! 知らない!」
朱志香は絵羽のいやらしく絡み付いた指を振り払う。
何も聞きたくない、とウェーブのかかった髪を掻き乱し、両手で耳をふさぐ。
血潮の行き来する音が次第に大きくなっていった。
いっそ、その音だけ聞いてやり過ごしてしまいたいのに、責め立てる声音が鼓膜を打ち付ける。ぎゅっと目を瞑っても、切迫した痛い視線を感じてしまう。
だから、何の意味もないと知りつつ自分も叫ぶしかない。何の意味もないというのに。
――――この中で、何人が朱志香を疑い、何人が朱志香を憐れんでいるの?
ただわかるのは、彼等の中で嘉哉は確定的に犯人だということ!
ただわかるのは、誰も助けてなんかくれないこと!
「……ふざけてるなぁ」
ぷつり。
会話の糸が切れる時、こんな音がするんだなぁとどこか遠いところで考えていた。
朱志香は自分でも驚くほど落ち着いて、声の主を振り返った。朱志香がその名を口にする前に、絵羽が反応する。
「なぁにぃ、戦人君?」
「ふざけてるだろ、あんたの理論の穴……いや、溝をさ。解ってるくせに言及してないんだろ?」
「溝ですって?」
戦人が呆れたように絵羽の目を見た。絵羽は眉を寄せる。
どうしてかいつもの嫌みったらしい語尾が削がれていた。
「冷静に考えりゃわかることさ。朝朱志香が来たときにはほぼ全員が揃ってた? だから何だってんだ」
「なに、ですってぇ? 貴方以外の全員が嘉音を拉致することが不可能だってことじゃない。あれから誰も嘉音の姿を見ていないのよぉ?」
戦人は大袈裟に息を吐く。
「駄目だな、全っ然駄目だ。姿を見ていない=失踪だって前提が間違ってるんだ。確かに昨日の深夜、熊沢さんと郷田さんが確認して以来、嘉音君と会ったと主張してるのは朱志香だけだろうぜ。だがだからといって嘉音君が失踪ではなく、一人で黙々と仕事をしてた可能性は否定出来ねぇんだ」
「あ、あぁ確かに、よし……いや嘉音君は自分だけの仕事があるって言ってたぜ」
だから誰も見ていないのが不思議なのだ、と朱志香は続けた。
「だからぁ、その仕事の結果があの惨状なのよぅ。戦人君の言い分がわからないわぁ」
「いっひっひ、それは本当か?」
「………本当よぅ」
「なんであんた程の人が、その後『朝食の準備に散った他の使用人』や『行方不明者の捜索に出た親族』を疑わねぇんだ? いや、疑っているはずさ、伯母さんも他の人達も。『集合後別れたらなんのアリバイにもならない』ってことを十分に理解した上で、誰も嘉音君を拉致出来ないって理論を黙認してるんだ。一気に攻め立てられた朱志香が、動揺で論理を奪われている間に畳み掛ける為になぁ?」
「…………」
絵羽が顔を歪ませ、唇を噛む。図星だったのだろう。
「自己防衛の為か? それとも……」
「戦人君? これはもう『庇った』で良いのよねぇ!?」
異端者ハ狩レ
疑ワシキハ黒
中世の魔女狩りのごとき、忌まわしい地盤が出来上がっているのだと――そう言っているのだ。
朱志香はようやく理解した。
戦人の言う通り確かに多くの人間に拉致は出来る。それでも『彼が犯人』という可能性の方が遥かに高いこと――少なくともこの場では――。それならばと無理矢理朱志香を追い詰めて情報を引き出そうとしていたこと。
そして固まりかけていたその空気に、戦人が逆らってくれたということの意味を――。
絵羽の問いに、戦人は笑顔で答えた。そこには屈託などなく、彼にはとても似合っていたがこの場には相応しくない笑みで。
「……伯母さん、良いことを教えてやろうか」
無邪気な幼子のようで。
「なにかしらぁ?」
「俺が言いくるめれば、『あいつら』は簡単にあんたらに嘘をつくぜ? 親が殺されても、自身が追い詰められても」
「――――――、まさか貴方が」
戦人は、いつの間にか絵羽の手から抜き取っていた扇子を捨てるように彼女に向かって放る。
それは絵羽の膝元に落ちたが、絵羽は拾わなかった。
「あー、悪い悪い、余計に空気を悪くしちまったなぁ?」
「………」
言葉を発する者はいない。誰も彼の意図がわからないのだ。
さらに、明らかに様子のおかしい戦人を見てすらも、人魚の住む深い海のような瞳を無垢に向ける真里亞と縁寿に、彼の主張の信憑性を知る。
まるで、とっくに第九の晩を迎えて生存者が彼一人のような様相を見せる客間。
戦人はバツが悪そうに頭を掻くと、朱志香に向き直った。
「行こうぜ、朱志香」
「え?」
「どうやら『俺達』は疑われてるようだからよぉ、出た方が良さそうだ」
「……でも」
「捜すんだろ? 嘉音君」
「! ……うん!」
そして、朱志香と戦人は客間を出た。
入る時は開いてから閉じるまで随分かかった扉も、今は二人分。
誰も止めることは出来なかった、どんなに危険だと分かっていても。
いっそ犯人候補を二人も追い出せたのと満足している者もいたのかもしれない。尤も、そこそこ頭の回るものには戦人の目的は想像がついていたが。
――結論から言えば、仕方がなかったのだ。
その場の殆どが、惨劇が碑文に準えられていることに気付いていなかったのだから。
「第二の晩に、寄り添う二人を引き裂け、か………」
羊の群れと狼の檻の境界線を跨ぐ刹那、そう呟いた戦人の声を、聞き取れたのは最も廊下寄りに座っていた楼座のみだったのだから。
――――
June.19.2010
真里亞の方もいかに9歳とて――9歳ならば十分に、絵羽の推理の前提が『人間』であることは解るのだろう。真里亞にとって魔女はアリバイなど超越する存在なのだ。
(もういっそ、全て魔女の仕業で良いよ)
思考の奥が真っ黒になって、ぐらぐらと揺れる。
朱志香は自分の頭の回転が速いなどとは思っていなかったし、実際絵羽に提示されたままの主観的真実の上で、必死に抜け道を探していた。
そんな追い付くのもままならない自分では、嘉哉の無実は証明出来ない。そう、自分には何も出来ない。
そして、無実が証明出来なければ捜索はされない――駄目じゃないか、このままでは嘉哉が危険にさらされたまま! ……或いは、既に――朱志香はソファから腰をあげようとする。
だが、支柱にした腕を絵羽に掴まれてしまう。
獰猛でしなやかな野獣のように、不気味に瞠かれた片目。もう片方がぐにゃりと歪みながら吊り上がり、どちらも自分を捉えている。
『逃がすものか! 人殺しの※※!』
そんな声が光速で脳みそを巡回して、思わず情けない声を出してたじろく。
「くすくす。ベアトリーチェねぇ、そうかもねぇ? 良かったじゃない朱志香ちゃぁん。容疑者が増えたわよぅ。……だからとっとと喋ってくれないかしらぁ、嘉音と別れたのが本当は何時だったか」
「だ、だから、私が食堂に向かう直前だっていってるだろ!?」
「それなら嘉音は自分から失踪した。それで終わりねぇ! それとも魔女かしらぁ、だとしたら目的は何なのかしらねぇ? ほらほらぁ、どう思うのぉ!?」
「知らない! 知らない!」
朱志香は絵羽のいやらしく絡み付いた指を振り払う。
何も聞きたくない、とウェーブのかかった髪を掻き乱し、両手で耳をふさぐ。
血潮の行き来する音が次第に大きくなっていった。
いっそ、その音だけ聞いてやり過ごしてしまいたいのに、責め立てる声音が鼓膜を打ち付ける。ぎゅっと目を瞑っても、切迫した痛い視線を感じてしまう。
だから、何の意味もないと知りつつ自分も叫ぶしかない。何の意味もないというのに。
――――この中で、何人が朱志香を疑い、何人が朱志香を憐れんでいるの?
ただわかるのは、彼等の中で嘉哉は確定的に犯人だということ!
ただわかるのは、誰も助けてなんかくれないこと!
「……ふざけてるなぁ」
ぷつり。
会話の糸が切れる時、こんな音がするんだなぁとどこか遠いところで考えていた。
朱志香は自分でも驚くほど落ち着いて、声の主を振り返った。朱志香がその名を口にする前に、絵羽が反応する。
「なぁにぃ、戦人君?」
「ふざけてるだろ、あんたの理論の穴……いや、溝をさ。解ってるくせに言及してないんだろ?」
「溝ですって?」
戦人が呆れたように絵羽の目を見た。絵羽は眉を寄せる。
どうしてかいつもの嫌みったらしい語尾が削がれていた。
「冷静に考えりゃわかることさ。朝朱志香が来たときにはほぼ全員が揃ってた? だから何だってんだ」
「なに、ですってぇ? 貴方以外の全員が嘉音を拉致することが不可能だってことじゃない。あれから誰も嘉音の姿を見ていないのよぉ?」
戦人は大袈裟に息を吐く。
「駄目だな、全っ然駄目だ。姿を見ていない=失踪だって前提が間違ってるんだ。確かに昨日の深夜、熊沢さんと郷田さんが確認して以来、嘉音君と会ったと主張してるのは朱志香だけだろうぜ。だがだからといって嘉音君が失踪ではなく、一人で黙々と仕事をしてた可能性は否定出来ねぇんだ」
「あ、あぁ確かに、よし……いや嘉音君は自分だけの仕事があるって言ってたぜ」
だから誰も見ていないのが不思議なのだ、と朱志香は続けた。
「だからぁ、その仕事の結果があの惨状なのよぅ。戦人君の言い分がわからないわぁ」
「いっひっひ、それは本当か?」
「………本当よぅ」
「なんであんた程の人が、その後『朝食の準備に散った他の使用人』や『行方不明者の捜索に出た親族』を疑わねぇんだ? いや、疑っているはずさ、伯母さんも他の人達も。『集合後別れたらなんのアリバイにもならない』ってことを十分に理解した上で、誰も嘉音君を拉致出来ないって理論を黙認してるんだ。一気に攻め立てられた朱志香が、動揺で論理を奪われている間に畳み掛ける為になぁ?」
「…………」
絵羽が顔を歪ませ、唇を噛む。図星だったのだろう。
「自己防衛の為か? それとも……」
「戦人君? これはもう『庇った』で良いのよねぇ!?」
異端者ハ狩レ
疑ワシキハ黒
中世の魔女狩りのごとき、忌まわしい地盤が出来上がっているのだと――そう言っているのだ。
朱志香はようやく理解した。
戦人の言う通り確かに多くの人間に拉致は出来る。それでも『彼が犯人』という可能性の方が遥かに高いこと――少なくともこの場では――。それならばと無理矢理朱志香を追い詰めて情報を引き出そうとしていたこと。
そして固まりかけていたその空気に、戦人が逆らってくれたということの意味を――。
絵羽の問いに、戦人は笑顔で答えた。そこには屈託などなく、彼にはとても似合っていたがこの場には相応しくない笑みで。
「……伯母さん、良いことを教えてやろうか」
無邪気な幼子のようで。
「なにかしらぁ?」
「俺が言いくるめれば、『あいつら』は簡単にあんたらに嘘をつくぜ? 親が殺されても、自身が追い詰められても」
「――――――、まさか貴方が」
戦人は、いつの間にか絵羽の手から抜き取っていた扇子を捨てるように彼女に向かって放る。
それは絵羽の膝元に落ちたが、絵羽は拾わなかった。
「あー、悪い悪い、余計に空気を悪くしちまったなぁ?」
「………」
言葉を発する者はいない。誰も彼の意図がわからないのだ。
さらに、明らかに様子のおかしい戦人を見てすらも、人魚の住む深い海のような瞳を無垢に向ける真里亞と縁寿に、彼の主張の信憑性を知る。
まるで、とっくに第九の晩を迎えて生存者が彼一人のような様相を見せる客間。
戦人はバツが悪そうに頭を掻くと、朱志香に向き直った。
「行こうぜ、朱志香」
「え?」
「どうやら『俺達』は疑われてるようだからよぉ、出た方が良さそうだ」
「……でも」
「捜すんだろ? 嘉音君」
「! ……うん!」
そして、朱志香と戦人は客間を出た。
入る時は開いてから閉じるまで随分かかった扉も、今は二人分。
誰も止めることは出来なかった、どんなに危険だと分かっていても。
いっそ犯人候補を二人も追い出せたのと満足している者もいたのかもしれない。尤も、そこそこ頭の回るものには戦人の目的は想像がついていたが。
――結論から言えば、仕方がなかったのだ。
その場の殆どが、惨劇が碑文に準えられていることに気付いていなかったのだから。
「第二の晩に、寄り添う二人を引き裂け、か………」
羊の群れと狼の檻の境界線を跨ぐ刹那、そう呟いた戦人の声を、聞き取れたのは最も廊下寄りに座っていた楼座のみだったのだから。
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